社員インタビュー

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服部鉄平

真に価値ある商品を開発し、
お客さま企業と社会をより良くする。

服部 鉄平

コーポレート本部
新規事業開発室

大学3年生で休学しJBAへ。
ここでの経験が、自分の人生を決めると思った。

ー服部さんは、どんな学生でしたか?

自分の目標やビジョンを持って、活発に行動する学生だったと思います。自分が過去に学校の教育や人間関係が元で苦しい思いをした経験から、同じような思いをする人がいない社会をつくりたい、と強く思ってきました。高校時代から、全国のセミナーやシンポジウムに参加するなど、目標を実現するために積極的に行動していましたね。だからこそ、コロナ禍で大学に入学した 1年生の前期には「大学にいても意味がないな」と悟ったんです。地元から引っ越した札幌の下宿でずっと家にこもり、授業もオンラインで、大量にでる課題をこなす毎日。元々しようと思っていた留学も出来なくなり、大学生活で何をすべきか、何をできるかが全く見えなくなりました。「大学以外の場所でもっと経験を積まないと」と、札幌のスタートアップを支援する団体や、学生が集まって社会課題を解決するアプリケーションを開発する「ハッカソン」に参加したり、自分なりに行動。大学2年の冬休みに始めたJBAのインターンも、そのうちの1つでした。

ー自分の目標のために、経験を積める場所を求めていたんですね。実際にインターンをしてみて、どうでしたか?

どんな仕事なのかも分からないまま、あらゆる案件に「やらせてください!」と手をあげていたのを覚えています(笑)当時、札幌で大学生がビジネスや社会課題解決に携われる仕事は本当に珍しかったので、折角手に入れたこの環境で、とにかく何か経験して、得てやるんだという一心でした。がむしゃらにJBAでの仕事に打ち込む日々を2か月程送った後、大学3年生の1年間を休学し、学生社員としてJBAに入社することを決めました。

ー休学してJBAに?思いきった決断ですが、どうしてですか?

全国のインターン生が集まり経営戦略を議論するプログラムで、休学を考えている同級生と出会ったことが大きなきっかけになりました。「自分の将来やりたいことを実現するために、休学して経験を積みたいと思っている。」そう真剣に話す学生の姿を見て、「その手があったか」と。目の前の道の先に、新しい分かれ道ができた感覚でした。2日間のプログラムで、1日目にはもう意志は決まっていて、両親に連絡をしていましたね。両親にも「決断は尊重するけれど、責任はすべて自分で取ること」と言ってもらい、あっという間に休学が決まりました。

ー普通の大学生だった服部さんの歩む道は、その瞬間に大きく変わったのですね。その時の心境はどうでしたか。

正直、「浮かれている場合じゃないぞ」と(笑)休学はたった1年間。この先の人生を考えたら、あっという間の時間です。これだけ仕事の機会にも、環境にも、仲間にも恵まれている場所で、ここで何も出来なかったら、この先の人生もきっと何も成し遂げられないと思いました。「この1年で成果を出さないと、自分の人生は終わる。」そのくらいの覚悟で、今も仕事をしています。

服部鉄平

「何とかしてよ」とアサインされた社内制度改革。
愚直に取り組めば、どんなことも自ら変えられると気付いた。

ー1年の休学を決め、社員として入社した後、どのような仕事に関わったのですか?

JBAの30年以上の歴史の中でも、かなり新しい、チャレンジングなプロジェクトに多く携わってきたと思います。新しい商品事業部の立ち上げに始まり、メーカーやITなど、幅広い業界の会社さまの企業ブランディング、企業ロゴや名刺のデザイン・制作などのクリエイティブな案件など。興味がある案件にはどんどん関わるようになりました。そんな風に沢山の案件に関わってきた中でも、最も忘れられない、転機となった仕事があります。夏頃から始まった、JBAの新しい人財育成プログラム開発です。

ー人財育成プログラムですか。とても難易度の高い仕事だと思いますが、どうやって進めていったのでしょうか?

僕自身も人財育成という初めての領域の仕事で、上手くできる確信はありませんでした。「そのやり方で本当に上手くいくのか」などと厳しいフィードバックがあることが耳に入り、考えすぎて眠れなくなった夜もありましたね(笑)それでも「悩むくらいなら、少しでも進めよう」と、ひたすら手を動かした日々でした。違うと言われた部分を直して提出し、また違うと言われた部分を直して提出する……。それをただ愚直に続けました。今まで2か月をかけてやっていた単純なPDCAを2日でできるようにし、途中で諦めていたことを、絶対に諦めずにやり続けた。その執念と愚直さが、プロジェクトを少しずつ前に進めていったのだと思います。

ー眠れない夜も……。正解が見えない中で、どうして愚直にやり続けられたのでしょうか。

正直、逃げたいと思っていた時期もあります。しかし、やり遂げずに逃げるのはただの逃げだなと思いました。だったら、誰もやり遂げられなかったこの仕事を自分が上手くやって、逃げたり辞めたりするならその後だろうと。そんな執念だけで続けていたある日、これまで「全然違う」と話していた社長に、「これだよ!」と言ってもらえたのです。その瞬間、目の前にあるプログラムの内容はもちろん、その先に学生インターンの皆が生き生きと仕事をし、学生と一緒に成長していくJBAの未来があること、自分が愚直にやってきたことを信じられるようになりました。そうしてつくり上げたプログラムが、JBAの人財採用・育成の基準になり、さまざまな場面で展開されるようになった時、「変えられないことなんて無いんだ」と気付きました。僕は、自分に何か特別な才能があるとは全く思っていません。このプロジェクトも、目の前に転がってきた仕事に、ただひたすら向き合っただけ。それでも、この場所なら、会社として、組織として、大きい動きをつくり、あらゆるものを自分の手で変え、良くしていける。そんなJBAで働いている今の時間とこの仕事が、僕自身の「社会を良くしたい」という人生の目標にも結びついていると考えています。

服部鉄平
服部鉄平

15年間変わっていない商品を進化させ、
リーダーとしてJBAを次のステージへ。

ー苦しい経験を乗り越えた服部さん、現在注力している仕事は何ですか?

ひとことで言うと、JBAの新しい商品開発でしょうか。かなり社内的な話なのでイメージしづらいと思うのですが、遡ると2007年くらいから約15年間続いてきたJBAのビジネスモデルを変革し、変化していく今の時代とそこで闘い成長している企業にとって、真に価値を提供できる商品をつくろうとしています。そのために、JBAが長年お取引してきた小売り業界D社さまの納品物を全て見返し、今の時代に合わせて改善するために何が必要かを分析し、体系化する、という作業を進めています。今、本当に時代が大きく変わっている中で、JBA自体も企業として、上がるか落ちるかの境目にいると思っています。自分自身が選んで入った会社だから、僕はもっと良くしていきたいんです。JBAは「自分たちは何屋さんです」ということを決めていないから、何でもできる。「JBAが関わったら全部良くできます!」というマーケティングを、本当に実現できる会社になれば、世の中を本当に良くできる。そこまでいけたら面白いし、そこまで持っていきたいと思っています。

ーその未来を実現するために、服部さん自身の目標はありますか。

それを実現するリーダーになることですね。僕が好きな言葉に、日立グループのV字回復を導いた川村隆元会長の「リーダーはラストマンだ」という言葉があります。何か新しいことをやろうとするとき、途中まで関わったり、ちょっと良くしたりすることは簡単だけれど、最後までやり遂げる責任者は自分自身しかいません。何事も、実現しないと意味が無い。自分が“ラストマン(最終責任者)”だと思って、より良い未来を見るために、今を積み上げていける、そういう存在になりたいです。その上で、自分がいなくなれば無かったことになってしまう砂上の城のような仕事ではなくて、自分がいなくても何十年も機能し続ける強固な土台や構造を残せる仕事がしたいです。今まで多くの社員が「やりたい、実現したい」と思ってきたことを、本当にかたちにするために。あらゆるものを、どんな手段を使ってでも、変えて、より良くしたいと思っています。とは言え、正面にしかぶつかれない性格なので、ずるがしこくやっても僕にとっては意味がなくて(笑)「社会・経済を良くしていく」という自分の信念に真っすぐに、これからも目の前の毎日に向き合っていきたいですね。

服部鉄平